アメリカ人に学ぶ働き方改革④ – 80歳でも働き、30歳で引退する国
「定年まで働いて、あとは悠々自適に」
そんな人生設計は、アメリカではもうすぐ過去のものになるかもしれません。一方では80代になっても現役で働き続ける高齢者が増え、もう一方では50歳前に仕事を辞めることを目標に資産形成に励む若者たちがいます。この一見矛盾する二つの潮流が示すのは、「働くこと」の意味そのものが、静かに、しかし確実に変わりつつあるという事実です。
リタイアしない高齢層、リタイアしたい若年層
アメリカの平均引退年齢は現在62歳です。本来であれば、40年ほど働いたのち、年金(ソーシャルセキュリティ)が支給されるタイミングで仕事から身を引き、あとはゆっくり過ごす、それが「普通の人生」とされてきました。
ところがその常識は崩れ始めています。65歳以上で働く人の割合は1980年代の約10%から現在はおよそ20%へと倍増。さらに80歳以上の就業率も2010年の3%から現在は4.2%へと上昇しており、75歳以上の層は全世代のなかで最も急速に伸びている労働人口となっています。
BUSINESS INSIDERの記事によると、カンザス州ウィチタに住むブライアン・バーディックさんは82歳のスクールバスドライバーで、50代に怪我、高額な離婚費用、姉の死、そして火災と、立て続けに試練が重なり、老後の蓄えはほぼ失われました。しかし今、時給28ドルとソーシャルセキュリティの給付を得ながら、毎日バスに乗り込んでいます。「私はこれまで自閉症の子どもたちに言葉を教えてきた。人生において幸せでいるために必要なのは、愛する誰か、すべきこと、そして楽しみにできること、私にはどれもある」と彼は語ります。
81歳のヴィッキー・ヴォスパー=フェントンさんも、63歳で引退できる経済的余裕がありながら、今もオンライン講師と家系調査員として週に複数の仕事をこなしています。「他者を助けることが、私を生き生きとさせてくれる。精神的に55歳のつもりでいるから、シニアセンターには行かないわ」と笑います。
彼らに共通しているのは、経済的な必要性だけが動機ではないという点です。人の役に立ちたい、社会とつながっていたい、そして完全に仕事を辞めた友人たちが急速に衰えていく様子を目の当たりにして、自分はまだ若く元気だということを証明したい。そんな思いが、彼らを職場に向かわせています。
FIREを目指す若年層と「引退」の再定義
一方、若い世代ではFIRE(Financial Independence, Retire Early=経済的自立と早期引退)の概念が急速に広まっています。2023年にハリスポールが実施した2,000人以上を対象とした調査では、4人に1人が「50歳までに引退したい」と回答しています。ただし、実際にそれを達成できる人はごく少数です。
興味深いのは、FIREムーブメントの本質が「働かないこと」ではないという点です。多くの人が目指しているのは、ストレスや義務感から解放された上で、自分が意味を感じられる仕事に関わり続けることです。実際に早期引退を達成した人の多くが、その後もブログ執筆、コンサルティング、起業、不動産経営など、何らかの活動を続けています。
エワ・リン氏(37歳)は2025年、年間のうち4分の1しか働いていません。「時間こそが最も希少な資源」と語る彼女は、フリーランスとして好きな案件だけを選び、残りの時間を旅と経験に充てています。「以前はあらゆることにYesと言っていた。今は、楽しめる案件と充実感をもたらすプロジェクトにしかYesと言わない」
就職より先に投資を始めるZ世代
こうした働き方の変化の背景には、若い世代の「お金の稼ぎ方」に対する意識の変化もあります。大学を卒業して就職することが、収入を得る唯一の手段だという考え方は、すでに過去のものになっています。
JPモルガン・チェース・インスティテュートのデータによると、22歳以降に投資口座(401(k)を除く)へ資金を移した26歳の割合は、2015年の8%から2025年5月時点でなんと40%へと急増しています。また、世界経済フォーラムの2024年の調査では、Z世代の30%が「就業前の若年期に投資を開始した」と回答しており、これはベビーブーマー世代の6%と比較して約5倍の水準です。さらに6%は「思春期に投資を始めた」とまで答えています。
なぜこんなに早くから動けるのでしょうか?答えはシンプルです。スマートフォンとSNSの普及により、投資の情報が誰でも手に入るようになった。そしてそれ以上に、従来の「安定した雇用」への信頼が揺らいでいるからです。就職したとしても会社がいつまで自分を必要とするかわからない、そんな不安が、若い層を早期の資産形成へと向かわせています。
彼らの考え方は明快です。必要なのはお金そのものであって、「ただの収入源としての仕事」に価値を見出す必要はない。生活費を稼ぐための手段と、やりがいを持って取り組む仕事は、別物として切り分けて考えているのです。
引退の意味、働くことの意義
65歳を超えても働く高齢者と、50歳前に引退したい若年層。この一見正反対の二つの群が同時に増加しているという事実は、何を意味するのでしょうか。
少なくともそれは、現行のリタイアモデルが徐々に崩れ始めており、「仕事の意味」が再定義されつつあることを示しています。両者の見た目は真逆でも、根底にある価値観は共通しています。仕事は単なる手段ではなく、人生そのものの一部である—だからこそ、時間をただやり過ごすのではなく、仕事を楽しめるものにしようとしている、という点において両者は一致しています。
もちろん、人生は思い通りにはいきません。想定外の病気、突然のリストラ、経済環境の変化、急激な物価の高騰。理想通りのリタイアプランを実現できる人は、実際にはほんの一握りかもしれません。しかしだからこそ、「65歳になれば幸せになれる」という前提で現在を犠牲にするより、目の前の生活に意味を持たせることのほうが、豊かな人生への近道なのかもしれません。
暮らしの中に目的を見つけることが、良い人生の鍵だと多くの人が気づき始めています。それが仕事である人もいれば、そうでない人もいる。そのような個々の価値観を、社会の同調圧力に縛られず体現し始めている人たちが増えていることは、間違いなく良い兆候です。
「毎月の給料」という安心感の正体
仕事より、お金より、自分の時間と生活への満足感を優先したい—そんな価値観が静かに広がっています。これは決して怠惰な発想ではなく、従来の「給料制の労働」に対する認識が変わりつつある、健全な流れだと私は見ています。
個人的な見解を言えば、会社員という仕組みには根本的な非対称性があります。たとえば一人の優秀な社員が10億円の売上を生み出したとしても、会社が支払うのは約束された固定給だけです。利益の大部分はオーナーや幹部、株主に集中します。そして社員は、年金が支給されるまで、そのハムスターホイールの中で働き続けることを期待されます。
問題は仕組みそのものよりも、それが「唯一の正解」として植え付けられることにあります。「毎月の給料が保証されているから安心」という考え方は、一見合理的に見えますが、その枠組みの外にある選択肢を見えにくくしてしまう側面もあります。
もちろん、安定した給与収入を得ながら働くほうが向いている人もいます。それ自体は何も悪いことではありません。ただし問題は、それが唯一の選択肢であるかのように信じ込まされることです。アメリカの高齢労働者とFIRE世代が共通して教えてくれているのは、「仕事とはどうあるべきか」を自分自身で問い直す勇気を持つことの大切さではないでしょうか。いま、私たちはようやく、“働き方を選べる時代”の入り口に立っているのかもしれません。